特別寄稿 『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』をめぐって

本作は、精神を病むアメリカ・インディアンのジミーと、文化人類学者ジョルジュの対話を中心に進められる物語ですが、
同時に今までのデプレシャン映画にも繰り返し現れる、通奏低音のように響くいくつかの主題も同時に感じ取ることができるでしょう。
「ジミーとジョルジュ」は観た人の数だけ存在する心の<冒険譚>があります。

今回、4名の方に、それぞれの切り口で「ジミーとジョルジュ」についての文章を寄稿いただきました。
この文章の全文は、劇場などで配布中の<『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』をめぐって>と題したフリーペーパーで読むことができますが、
ここでは各氏の文章を抜粋し、順次掲載します。

 

地の果てでの “語らい”
相澤 虎之助 (映画監督・脚本家)

この映画を観るにあたって、ぜひとも注意を払って観て欲しい部分はジョルジュが己の視力の衰えを恐怖し、文字を読めなくなることを危惧する場面や、彼の筆記や朗読、記録の行為である。監督も言っているようにこの物語はジョルジュ自身が元々正式な精神科医ではない“ヤブ”であり、ジミーとの対話によって彼自身も分析医となってゆく物語でもある。

加えて彼は約束の土地をはるか昔に失い、流浪の果てに血も人種も混じり合い、世界中に移民として生きていかなければならなかったユダヤ人だ。何にも頼るものを持たなかった彼らが最後に頼るもの、それは“言葉”であり“記録”である。それは目に見えない“理念”と言ってもいい。そんなユダヤ人の彼は、インディアンのジミーとの対話の中で彼の歴史をたどることによって自らの歴史もたどっていたことを誰よりも自覚してゆくのだ。

ジミーとジョルジュ −「異質なユニゾン」という矛盾した同調
ヴィヴィアン佐藤 (美術家)

この映画では二人は移動しない乗物(=病棟)に身を置き、自らの過去への旅へと出発し、もう一度自分自身の過去と対峙し、書き換え語り直す旅である。

アメリカとヨーロッパという場所におけるエスノマイノリティでありながら、大戦でも苦難を強いられた二人の男たち。彼らの個人の歴史はその民族的な歴史そのものの象徴となっている。

そして医師と患者という一方通行の関係ではなく、各々の生き方は対位法のような主旋律や対旋律という役割ではなく、驚くことにむしろ「異質なユニゾン」という矛盾した同調を奏で始める。

デプレシャンが描く、一生のうちの短くもかけがえのない時間
久保 玲子 (映画ライター)

群像劇の中から、生と死をテーマに、ほろ苦い人生讃歌を奏でてきたデプレシャンだが、今回は、一生のうちの短くも、かけがえのないものとなる時間を、訛りの強い男二人の会話劇によって描いてゆく。脚本の当て書きを好まないという彼が、今回だけは二人を想定して書いたというだけあって、マチュー・アマルリックとベニチオ・デル・トロの顔合わせは、もうこの二人以外に思いつかないほど完璧だ。

また、パリから海を渡ってはるばるジョルジュに会いにきて、そよ風のように去っていくマドレーヌ役の英国女優ジーナ・マッキーが爽やかに華を添える。「私たち 貴重な時を過ごしたのよ 細い糸だけど離さないで 二人の愛の輝きは永遠よ」マドレーヌの涙はジミーとジョルジュの涙であり、彼女の言葉と優しさに溢れたまなざしは、男たち二人が胸にたたえた思いの丈なのだ。

これは、まさに恋愛の始まりのようではないか。
真魚八重子 (映画文筆業)

決まった診療時間内の、淡々とした会話だけの関係。しかし治療開始直後にちょっとしたことで診療が延期になり、ジミーはカウンセリングを待ち遠しく感じる。そして、ジョルジュの熱意で再開された対話で、ジミーは心を開いていく。

これは、まさに恋愛の始まりのようではないか。焦らされたあとでほだされ、一気に溶ける心。でも、あくまで腐女子的な意味ではなく、人間同士の強い結びつきは、診療ということを越えて、恋愛などと同様の普遍的な関係性に至るとわかるものだ。こうしてジミーは、ジョルジュに促されるまま幼少時の出来事や夢を語り、彼の心にジョルジュが踏み込んでくるのを受け入れる。